明治30年 福島市生まれ.小関家に生まれるが橋本家の養子となる
明治43年 実家を離れ会津中学へ入学下宿生活
大正6年(20歳) 新潟医専入学
大正10年 新潟医専卒業。同校生理学教室(この間兵役服役)を経て
大正12年 東北帝大医学部・藤田敏彦教授の許に入室、生理学を専攻。
大正15年 函館市民間病院へ赴任するが4か月目に同院閉鎖のため失業。
昭和 2年 同市学校衛生技官となり、屋内運動場の防塵法を開発するなど功績を挙げる。
昭和 4年 友人が同市に開設した社団法人病院を助けるため市の技官を辞め外科部門を担当、5年間奮闘する。
以上数年間の体験のなかで、民間療法の臨床上の効果に開眼、東洋系物療はもちろん、あらゆる療法を漁って多くの名人たちの技術を吸収する。この間に後のレーベンス・テーマとなるものをつかむ。
昭和 8年 独立して函館市中央に橋本敬三診療所を開設、漢方を併用、全科で開業。
昭和12年 かねて研究の正体の歪みとその矯正の問題に確信を得たので、その構想をまとめたところへ支那事変が勃発、8月の応召に際し友人に託したこの原稿が「漢方と漢薬」誌に発表される。「求学備忘録」の数篇で、著者の主張の第一声となる。
昭和15年 応召より帰還、一度函館の診療所を再開したが
昭和16年 暮に仙台に引き揚げ、仙台市青葉区立町に温古堂医院の看板を掲げる。
「温古」の名称は、このとき相談にのった藤田敏彦教授の父君が温知社浅田宗伯の門弟であったことに由来する。
昭和19年 暮再び赤紙で応召、北鮮に配属され、終戦と共にソ連に抑留された。
昭和23年 夏無事帰還。しばらく戦後学会の様子を見定めた、
昭和24年 仙台の赤門学志東北高等鍼灸整復学校で昭和48年まで講義、資格試験委員をも務める。
昭和26年 日本医事新報その他に執筆を開始する。
この間、運動系の研究を深めるとともに生体の自然法則との関係にまでその理論を発展せしめて、 医界への警鐘を鳴らし続けるが、何の反応も得られず、ついに筆を折らんとした昭和50年頃を境に、逆に一般民間の支持を得て一躍マスコミの寵児となり、温古堂先生の「操体法」として世に迎えられた
平成 5年 老衰のため惜しくも他界。享年95歳。